日本サッカー人物史
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坪井玄道 [Gendou TSUBOI]
日本サッカー殿堂
1852年1月9日、千葉県生まれ
幼名 仁助
体操伝習所主任教師、東京高等師範学校教授、東京女子高等師範学校教授、東京女子体操音楽学校名誉校長。学校体育の父、女子体育振興の功労者。 わが国におけるサッカー普及の祖。学校体育や部活動におけるサッカー発展の端緒を開く
体操伝習所(1878年開設。後、高等師範学校に吸収される)で体育教員の養成にあたり、軽体操を指導するとともに屋外スポーツの必要性を説く。1885年刊行の『戸外遊戯法一名戸外運動法』(田中盛業との共著)で屋外運動の一つとしてサッカーを紹介。この第17項「フートボール」が日本語で書かれた最初のサッカー解説書となり、本書及び改訂版は後の体育書に影響を与え、サッカーが学校教育の中に位置づけられるきっかけをつくった
また、1901〜2年の欧州視察の際、サッカーの心身両面における教育的価値を再認識し、帰朝後もその普及に務めた。部長を務めていた東京高等師範学校蹴球部は、氏が持ち帰った書を参考に、氏の意見と校閲を受け、『アッソシエーションフットボール』(1903年)『フットボール』(1908年)を刊行した。これらは、サッカーの仕組みを詳説した我が国初のサッカー専門書であり、サッカーの普及に寄与するものであった。自身も師範学校及び附属小学校でサッカーの指導を積極的に行ない、彼の薫陶を受けた教員や蹴球部員の手によってもサッカーは各地の学校に広まった。また、同校蹴球部を中心に大学や高専の運動部においてもサッカーは発展を遂げた
1909年 勲四等旭日小綬章受章
1922年没
2006年 第3回日本サッカー殿堂入り
※ 東京高等師範学校は、1973年東京師範学校として設立。1886年に高等師範学校、1902年に東京高等師範学校と改称されている
※ 同校蹴球部は、1986年「フートボール部」として設立し、初代部長が坪井玄道である。その後「フットボール部」となり、1904、5年ごろから「蹴球部」という名称が使われるようになった
イントロダクション
スポーツを学校教育に取り入れ、そのなかでサッカーを推奨した
日本サッカーの現在の盛況の源をたどれば、この国で初めてフットボールを行なった英国海軍軍人やダグラス少佐(中佐との談も)とその部下たち、あるいは、それより2年早いとされる神戸市居留地の外国人たちの試合などがあるが、このスポーツを日本で広めようと実際に若者に教え、活字で世に紹介したのは坪井玄道(つぼい・げんどう)先生が最初。ダグラスさんより少し時代は下がるが、1879年(明治12年)から1922年(大正11年)までの40余年、体育指導者でありつづけた先生を、わたしたちは日本サッカーの始祖と尊敬している。
生まれたのが黒船来航の前の年。嘉永6年(1852年)千葉のいまの市川市の農家の次男で、仁助と名づけられた。幕末動乱の折に医学を志して14歳で江戸に出て、幕府の学問どころの開成所に入ったというから元来、利発な少年だったのか。そこで蘭学ではなく英学を学んだ。
その英語力で、新たに設立された体操教師を養成する「体操伝習所」でアメリカ人リーランド教授の通訳となった。彼との3年間の学生指導で、先生は理論はもちろん実技も身につけ、リーランドが帰国した後も学生を指導した。
先生が明治18年(1885年)に教え子の田中盛業とともに「戸外遊戯法:一名戸外運動法」を刊行したのは、体操だけでなく室外でのスポーツをも体育に取り入れたいとしたから。そのなかに、フートボールを加えた。日本で最初にサッカーを紹介した本でもある。
先生のすばらしさは、チームは双方11人とルールにあるがもっと多くてよい、といったふうに指導者がそれぞれの実情に合わせて行ないやすいように解説していることだった。
体操伝習所が廃止され、東京高等師範に戻って助教授、教授となり、フットボール部長を務め、43歳のとき欧州へ1年間の視察に出かけた。
帰国のときにピンポンの用具一式を持ち帰ったことは有名だが、手軽にできるスポーツがあれば日本に広めたいと常に考えていた先生らしいところ。
国を挙げて欧米に追いつけの声が高く、学校体育もまた富国強兵策のひとつと考える傾向のあったなかで、遊戯・スポーツの効能を説き、世界中で盛んに行なわれているフットボール(サッカー)を日本でも普及させることが若者の心身の発達に大切とした先生の指導理念は、筑波大学をはじめ各地の学校の先生に受け継がれている。
プロフィール
- 1852年(嘉永5年) 1月9日、下総国の豪農、坪井甚助の次男として生まれる。幼名は仁助
- 1866年(慶応2年) 医学を学ぶために江戸へ。開成所の岡保義について英語を学ぶ(68年、開成所は明治新政府によって開成学校となる)
- 1871年(明治4年) 開成学校卒業、大学南校(のちに東京大学となる)に勤務
名を仁助から光次に、さらに玄道と改める - 1872年(明治5年) 新設の師範学校(のちの高等師範学校、現・筑波大)勤務
- 1875年(明治8年) 6月、宮城英語学校の教師となる
- 1878年(明治11年) 体操伝習所の開校にあたり、アメリカ人体操教師、リーランドの通訳となる(宮城から東京へ)
- 1881年(明治14年) リーランドが帰国。坪井が仕事を引き継ぐ
- 1882年(明治15年) 『新選体操考』を体操伝習所から刊行
- 1885年(明治18年) 4月、田中盛業と共編で『戸外遊戯法 一名戸外運動法』を刊行
- 1886年(明治19年) 4月、体操伝習所は高等師範学校に吸収。坪井は同校助教授に
- 1896年(明治29年) 嘉納治五郎校長によって高師内に運動会が設立。柔道、撃剣および銃槍、弓技、器械体操、ローンテニス、ベースボール、フートボール(フットボール)、自転車の8運動部を設けた。坪井はフートボール部長となる。
この2年後に蹴球部という名称を使っているが、高師のなかでフートボール部が蹴球部と変わるのは1904年ごろらしい - 1900年(明治33年) 6月、体操研究のため、文部省から1年間の海外留学(フランス、ドイツ、イギリス)を命じられ、翌年2月、出発
- 1902年(明治35年) 6月、アメリカ経由で帰国。イギリスからピンポン用具一式を持ち帰る
- 1903年(明治36年) 東京高師フートボール部委員による『アッソシエーションフットボール』(鐘美堂)出版。坪井が序文を記す
- 1909年(明治42年) 4月、東京高等師範、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)教授を退職。高師体操科の講師となる
- 1922年(大正11年) 4月、東京女子体操音楽学校(現・東京女子体育大)の名誉校長となる
11月2日、死去。法名「堅行院釋玄道居士」、墓所は文京区向丘2丁目の真浄寺
関連項目
- 121年前、日本にサッカーを初めて紹介し東京高師−筑波大に根付かせた大功労者 坪井玄道
- 大日本蹴球協会(JFA)設立、全日本選手権開催。大正年間に組織作りを成功させた漢学者・内野台嶺
- メキシコ・オリンピックの8ヶ月前に釜本邦茂の劇的開花を助けた西独の名コーチ ユップ・デアバル
- 自らプレーヤーで指導者でもありサッカーに生涯を捧げた記者 山田午郎
- JFA創立に関わり、ベルリン行きを支援。“東京”成功の裏方を務め、50年史を世に残した 新田純興(下)
- チョー・ディンもクラマーもW杯招致も。黎明期から重要な布石を打ち続けたドクター 野津謙(上)
- 厳しいコーチをバックアップし代表チームに栄冠を呼んだ監督 鈴木重義(下)
- 自らは優れたランナー。体協の筆頭理事で募金活動に腕を振るったJFA初代会長 今村次吉
- 大正末期のショートパス(2)
- ベルリン→ニュルンベルク:カカーの右足シュートの確かさと負けても粘るクロアチアの執着心
- 始まりは明治初期の英国海軍。極東大会敗戦が熱中期へのきっかけ
- JFA初代会長、今村次吉は不忍池周回競争の裸足のランナー
- 東京オリンピック5、6位決定 大阪トーナメントをバックアップした 第6代FIFA会長 サー・スタンレー・ラウス(中)
- 東京高等師範学校で運動会 フットボール部をつくったオリンピックの父 嘉納治五郎(上)
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日本サッカーミュージアムの殿堂に掲額された肖像プレート (C) J. LEAGUE PHOTOS

坪井玄道先生

日本で最初にフートボールの解説を記した書物の扉