日本サッカー人物史

日本サッカーアーカイブ ホーム > 日本サッカー人物史 > 松丸貞一

松丸貞一 [Teiichi MATSUMARU]

日本サッカー殿堂

2015年第12回掲額

1909年2月28日、東京都生まれ

府立第五中学校(現都立小石川中等教育学校)でサッカーを始め、1926年に慶応大学に進学。1931年に主将となり、卒業後にはコーチ、1937年から監督を務めた。

1930〜40年代にドイツ流のサッカーでチームを強化。それまでトップに君臨していた東京帝大や早稲田大を制する最強チームをつくり上げ、日本サッカー界に新風を吹き込んだ。異なるスタイルを取り入れたことで日本全体のレベルアップにも貢献した、時代を象徴する指導者の一人。

慶応ソッカー部は初代主将の濱田諭吉が中心となって初代ドイツ代表監督を努めたオットー・ネルツの指導書『Fussball(フスバル)』を読み解き、技術、戦術などの理論を全面的に取り入れた。濱田の薫陶を受けた松丸はこの理論を引き継ぎ、ダイレクトパスによる速攻や、ボールを持たない選手の動き、攻守の切り替えを意識したプレーを実践した。コーチ就任1年目の1932年度には、当時最高レベルであった東京カレッジリーグ(1935年度から関東大学リーグ)でチームを初優勝に導き、OBを含めた慶応クラブで出場した全日本選手権で初の全国制覇を果たした。監督に就任してからは、関東大学リーグ4連覇、東西学生王座決定戦3回優勝、全日本選手権3回優勝(慶応BRB含む)という偉業を成し遂げ、慶応大学の黄金期を築くとともに、右近徳太郎、二宮洋一など日本代表の主力を担う選手を多数育て上げた。

日本代表選手としても活躍し、1934年第10回極東選手権(マニラ)に出場した。

戦後は審判界の発展にも力を注ぎ、審判委員会の初代委員長として登録制度の整備など審判委員会の体制づくりや審判員の技術向上に尽力するとともに、国際審判員としても活躍した。

1997年没
2015年第12回日本サッカー殿堂入り

イントロダクション

編集中

プロフィール

編集中

フォトライブラリフォトライブラリ

写真をクリックすると拡大表示されます。

中垣内勝久A加納孝A松丸貞一A宮本能冬A横山陽三A二宮洋一A賀川太郎A竹腰重丸

1948年8月、戦後第1回目の日本代表合宿。前列左から中垣内勝久、加茂健、横山陽三、二宮洋一、宮本能冬、竹腰重丸、松丸貞一、加納孝、賀川太郎

第3回国際大学スポーツ週間A岩田淳三A玉城良一A竹腰重丸A松丸貞一A筧晃一A徳弘隆A鈴木徳衛A山路修A小田島三之助A大谷四郎A山口昭一A木村現A岡野俊一郎A高林隆A長沼健A三村恪一A小林忠生A平木隆三A井上健

1953年夏、ドルトムントで開かれた国際学生スポーツ週間に出場した日本学生選抜チーム。後列左から岩田淳三、平木隆三、三村恪一、長沼健、高林隆、岡野俊一郎、木村現、山口昭一、大谷四郎、小田島三之助、山路修。同前列、鈴木徳衛、徳弘隆、筧晃一、松丸貞一副団長、竹腰重丸団長、玉置良一、井上健

日独交歓試合A村形繁明A加納孝A川本泰三A松永信夫A賀川太郎A松丸貞一A加藤信幸A岡田吉夫A加茂健A岩谷俊夫A大埜正雄A福島玄一A宮田孝治A津田幸男

1953年オッフェンバッハとの日独交歓試合。後列右から村形繁明(審判)宮田孝治、福島玄一(審判)大埜正雄、岩谷俊夫、加茂健(審判)岡田吉夫、加藤信幸。前列右から松丸貞一(役員)賀川太郎、松永信夫、川本泰三、加納孝、GK津田幸男 ※日本チームのみ (C)日本サッカーミュージアム

日独交歓試合A松丸貞一A村田忠男A木村現A岡野俊一郎A長沼健A平木隆三A竹腰重丸

1953年 日独交歓試合、対オッフェンバッハ戦のプログラム(全日本学生代表)

メルボルン五輪・アジア地区予選A松丸貞一A西村修吉A岩谷俊夫A竹腰重丸

1956年6月10日、メルボルン・オリンピック予選の対韓国戦(第2戦)。1勝1敗のあとの抽選で、日本が出場権を得た。右から2人目が竹腰重丸監督、その隣、岩谷俊夫主将、西本修吉氏。中央で抽選の箱を掲げるのは松丸貞一JFA理事。

このページの先頭に戻る