日本サッカー人物史
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新田純興 [Sumioki NITTA]
日本サッカー殿堂
1897年1月14日、北海道生まれ
幼名 稜威丸(みいつまる)
東京帝国大学卒業
1921年のJFA創設においては、組織運営、競技規則の翻訳や指導書の作成など多方面にわたり尽力。全国優勝競技会(現・天皇杯全日本サッカー選手権大会)の発足にも貢献し、日本サッカー界の礎を築いた。1922年には大学専門学校4校リーグ(1924年から東京カレッジリーグ)、1923年には全国高等学校ア式蹴球大会を創設し、学生サッカーの継続的強化の基盤作りに努めた
1935年JFA理事に就任。翌年のオリンピックベルリン大会に向け財務を担当し、遠征費用捻出に奔走。1940年の第11回明治神宮国民体育大会では練成部長を務めた
戦後は1962年常務理事に就任。オリンピック東京大会に向け、会場設営を中心に準備に携わり、大会の成功に貢献した
また、日本サッカー史研究の第一人者としても名高く、FIFAやイングランド協会を訪ねて自ら資料収集し、日本のサッカー史を掘り起こした成果を『日本サッカーのあゆみ(日本蹴球協会創立満50年記念出版)』(講談社、1974年)に著す
日本体育協会理事としてスポーツ界の戦後復興にも尽力。日体協とJFAの橋渡しを務め、天皇杯下賜にも寄与した
1972年 勲五等双光旭日章
1984年没
2006年 第2回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
JFA創設期から歴史をつくり、歴史を伝えた
新田純興(にった・すみおき)さんは、JFA(日本サッカー協会)の創立からベルリンの逆転劇や大戦後の復興期、そして東京、メキシコの両オリンピックと、長く日本サッカーとJFAにかかわってきた。
そして、その発展のあとをしっかり見つめ、1970年にはJFA50周年記念の『日本サッカーのあゆみ』を編集し、発刊した。いわば協会きっての歴史家であり、わたしたちに温故知新の手がかりを教えてくれた大先輩である。
新田(にった)の名からも推察されるとおり、建武の中興のとき北条高時の鎌倉幕府を攻め滅ぼした新田義貞の流れをくむ名家で、徳川家の御家人の家柄だった。
明治30年(1897年)生まれ、わたしから見ても23歳上。東京高師附属小学校から附属中学、さらに第一高等学校から東大の秀才コースを踏んだ江戸っ子である。
小学校6年のときにサッカーに出合い、附属中学で熱中した。一高に入って野津謙(のづ・ゆずる、のちの第4代JFA会長)さんに会い、東大の学生時代から JFAの創設や第1回全国優勝大会(現・天皇杯)の開催のために働いた。東大の工学部冶金学科を卒業して三菱鉱業に入り、佐渡に赴任してしばらくJFAから離れるが、東京に戻るとJFA理事となり、折からのベルリン・オリンピックへの選手派遣費募金活動に力を注いだ。
新田さんは交響楽の演奏の利益2千円余(当時かなりの家が買える額)を寄付したが、楽団へのギャラは新田さんが支払ったから、イベントは黒字になったとか。
戦後は学校の先生となり、古河一高でサッカー部を指導したこともあったが、1958年の第3回アジア競技大会では競技運営に関わり、次いで64年の東京オリンピックでは準備委員長を務めた。広い知識のうえに、日々、勉強を積み重ねる新田さんの几帳面な仕事ぶりには誰も脱帽。協会の機関誌でも古いオリンピック記録を整理し、用語の正確な使用を呼びかけた。
自らが体験し、関わってきた日本サッカーの流れをまとめるために、JFA50周年記念『日本サッカーのあゆみ』の編集委員となり、若い仲間とともに1974年に出版にこぎつけた。
1968年のメキシコ・オリンピックに向かって日本チームが出発するとき、ほとんどの人が「がんばれ」と言うなかで「フェアプレーを強調」した新田さんは、この書のなかにも随所にサッカー仲間への愛情とフェアプレーを書き込んでいる。新田さんの遺言ともいうべきこの『あゆみ』は、私にも大切な一冊となっている。
プロフィール
- 1897年(明治30年) 1月14日、函館に生まれる。父・新田純孝、母・きく
- 1899年(明治32年) 裁判官の父の転任に伴い、東京に戻る
- 1903年(明治36年) 4月、東京高等師範付属小学校に入学
6年生のころ、サッカーの手ほどきを受ける - 1910年(明治43年) 4月、東京高等師範付属中学校に入学。サッカーに熱中する
- 1916年(大正5年) 4月、第一高等学校(旧制)に入学
- 1919年(大正8年) 4月、東京帝国大学工学部に入学
- 1920年(大正9年) 大日本体育協会蹴球部委員として、21年の大日本蹴球協会創立や第1回全日本選手権開催に力を尽くす
- 1922年(大正11年) 4月、東京帝国大学工学部冶金学科卒業。三菱鉱業に入社し、佐渡鉱山に赴任
- 1934年(昭和9年) 8月、三菱鉱業東京本社勤務。翌年から36年までJFA理事となる
- 1936年(昭和11年) 春、ベルリン・オリンピックへの選手派遣の募金活動を行なう
- 1940年(昭和15年) JFA常務理事、第11回明治神宮大会の参加選手練成合宿の部長として、選手の指導にあたる
- 1945年(昭和20年) 日本体育協会評議員、理事を務める(〜47年)
- 1949年(昭和24年) 古河一高教諭としてサッカー部を指導(〜54年)
- 1958年(昭和33年) 5月、第3回アジア競技大会、蹴球の部運営委員
- 1962年(昭和37年) 5月、東京オリンピック・サッカー競技運営委員(〜64年10月)
- 1963年(昭和38年) JFA常務理事(〜71年)
- 1972年(昭和47年) 4月29日、日本サッカー普及の功績により、勲第五等双光旭日章
- 1974年(昭和49年) 2月、編集委員長として『日本サッカーのあゆみ』(講談社刊)を出版
- 1976年(昭和51年) 4月、JFA顧問
- 1984年(昭和59年) 8月1日、死去
関連項目
- 昭和の大先達・竹腰重丸(上)
- 早稲田の“主” 工藤孝一(上)
- 60歳を過ぎて県リーグ2部の公式試合――戦中派の代表 賀川太郎(上)
- 日本サッカーの創生期から発展期まで、歴史とともに生きて歴史を伝えた大先達 新田純興(上)
- JFA創立に関わり、ベルリン行きを支援。“東京”成功の裏方を務め、50年史を世に残した 新田純興(下)
- 旧制神戸一中の生徒たちを半日の指導で変身させたビルマ人留学生、大正期のクラマー チョー・ディン
- チョー・ディンもクラマーもW杯招致も。黎明期から重要な布石を打ち続けたドクター 野津謙(上)
- 自らは優れたランナー。体協の筆頭理事で募金活動に腕を振るったJFA初代会長 今村次吉
- 華族で貴族院議員。ベルリン五輪へ代表を送り成果を挙げた、第2代JFA会長 深尾隆太郎
- 1964年東京オリンピック「6万人の観客を酔わせたハンガリー対チェコの決勝」
- 釜本邦茂(19)メキシコ銅メダルでJSLは観客増となり、ファンは満足と幸福感に酔う
- 大正末期日本サッカーの技術進化に貢献したビルマ人留学生チョー・ディン
- スコットランド流のパスゲームを強調したチョー・ディンの指導
フォトライブラリ
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日本サッカーミュージアムの殿堂に掲額された肖像プレート (C) J. LEAGUE PHOTOS

新田純興さん

新田純興さんが中心になりつくったJFA50周年記念の「日本サッカーのあゆみ」。その他、田辺五兵衛、鈴木重義、多和健雄、大谷四郎、中条一雄の5氏が編集委員を務めた

明治神宮競技場で開催された昭和21年度東西対抗のパンフレット(左・表紙、右・裏表紙)