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創始者カール・ユーハイムはゴールキーパー
第2代河本春男社長は名監督、名部長。モットーは「一歩先んじ、一刻早く」
ユーハイムといえば、バウムクーヘンというドイツケーキとともに神戸の元町1丁目の浜側(=南側)にある洒落たガラス張りの本店を思い出す人も多いだろう。東京の丸の内ビルディング、あるいはJR中央線(千駄ヶ谷駅)近くのレストランなどもあって親しまれているが、私のような戦前・戦中の神戸人には三宮の大丸の東、広い道路の山側(=北側)にあった「ユーハイム・コンフェクショナリ・アンド・カフェ」が懐かしい。昭和12年(1937年)、旧制神戸一中(現・神戸高校)に入学したばかりの私が、友人の病気見舞いのケーキを買いに仲間とともに訪れたとき、独特の香りと、談笑する外国人の会話に、日本のなかの外国、神戸のなかのヨーロッパを感じたものだ。
港町・神戸の象徴でもあったこのユーハイムが大戦争によって痛手を受け、主(あるじ)カール・ユーハイムの没後に苦境に立ち、エリーゼ・ユーハイム夫人が再建を託したのが河本春男さん(1910−2004年)。昭和37年(1962年)東京オリンピック開催の2年前のことだった。
河本春男さん——私どもかつての弟子は河本春男先生と呼ぶが——のサッカー界での実績は、このサイトの別掲のページに詳しいが、東京高等師範学校(現・筑波大)卒業後、22歳で神戸一中に着任してから7年間の在任中に全国中等学校選手権(現・高校選手権)優勝3回(実質4回)、準優勝1回の実績を残しただけでなく、OB会の組織を強くし、いまふうにいえば中学校であってOBたちによるU−17の育成組織を持つクラブをつくり上げている。先生が岡山女子師範に乞われて去った1939年以降も、3度の全国タイトルを取ったのも、この育成法が力となっている。
その河本先生が、大戦後、教育界から実業界に転じてユーハイムとも取引しているうちに、エリーゼ夫人から人柄と実行力を見込まれたのだった。
河本先生が経営に関わってからのユーハイムは、先生とその後継者・長男の河本武現社長の力量によって、多くの苦難を乗り越え、今日の隆盛を迎えているが、サッカーと同じ、「一歩先んじ、一刻早く」という先生の基本方針が生きているようだ。
ユーハイムで成功した先生は、神戸フットボールクラブや神戸市サッカー協会の会長としてサッカーの後輩たちをリードしたことはよく知られているが、創始者のカール・ユーハイムもまたサッカーに深い縁があったという。
第1次世界大戦(1914−1918年)でドイツと英米仏が戦ったとき、日本は英米側となり当時中国の山東省青島にあったドイツ海軍の基地を攻撃して占領し、多くのドイツ軍人が俘虜(捕虜)として日本の収容所で大戦終結まで暮らすことになった。そのなかに、青島でケーキ店を経営していた民間人のユーハイム夫妻もいた。当時の日本社会には“一等国になろう”という意欲があり、陸軍もまた俘虜を国際法にのっとって正当に扱うという態度で、比較的自由であったらしい。
広島県の似島収容所では、ドイツ人たちのサッカーチームがつくられ、広島の高等師範や中学校との交流があり、ここから広島のサッカーのレベルが急速に上がって大正末期から昭和初期のサッカー先進地の一つとなるのだが、その似島のチームでカール・ユーハイムさんがゴールキーパーを務めたこともあったという。
河本武社長の話では、エリーゼ夫人もサッカー好きで、春男先生と夫人は日本のサッカーを観戦したことも再三とか。
ドイツと日本のサッカーの関わりは、日本が四半世紀前のベルリン・オリンピック(1936年)で初出場・初勝利したこと、ドイツ人コーチのデットマール・クラマーによって今日のレベルアップの基礎が築かれたことなど、両国の関係は長く深い。第1次大戦の俘虜収容所の話はその一番古い話の一つだが、神戸の老舗ユーハイムもまた、その頃からサッカーに関わっていたことになる。ドイツと日本、神戸とユーハイム、それらを結ぶサッカーの糸は、強い絆となっていまに至っている。
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写真
昭和10年度全国優勝。後列左端、優勝旗を持っているのは大谷四郎キャプテン
1963年、河本春男氏(手前)とエリーゼ・ユーハイム社長。サッカーを観戦しながら会社の方針を決めたこともあった。
河本春男・神戸FC会長。1980年、神戸少年サッカー表彰式で
河本春男先生の書
写真提供:(財)ユーハイム体育・スポーツ振興会